世界と私の境界線

普通の社会人アラサーOLの日常 合気道に着物着付けをしながら駄文を書き散らす。

【読書記録】芥川・太宰に学ぶ心をつかむ文章講座

芥川・太宰に学ぶ心をつかむ文章講座

水王舎 出口汪著

2015年10月20日 第二版

 

芥川・太宰に学ぶ 心をつかむ文章講座 ~名文の愉しみ方・書き方~ [ 出口 汪 ]

価格:1,404円
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ひさしぶりに読書記録をつけようと思う。

 

あらすじ

タイトルにある通り芥川と太宰の文章を比較しながら

「こういう表現いいよね!」と解説をしていく本。

芥川は理知的で論理的な文体、太宰は自由奔放に自分の体験を元にストレートに伝える感情的な文体として比較をしています。

どちらも小学校から中学校までくらいで一通りは読んでいるのですが新ためてこの文章いいよねと私も思ったものをいくつか抜粋したいと思います!

 

芥川の文章

情景描写が素敵

一時間の後、明子と仏蘭西の海軍将校とはやはり腕を組んだまま、大勢の日本人や外国人と一しょに舞踏会の外にある星月夜の露台に佇んでいた。
欄干一つ隔てた露台の向うには、広い庭園を埋めた針葉樹が、ひっそりと枝を交し合って、その梢に点々と鬼灯提灯の火を透かしていた。しかも冷ややかな空気の底には、下の庭園から上ってくる苔の匂いや落葉の匂いがかすかに寂しい秋の呼吸を漂わせているようであった。が、すぐ後ろの舞踏室では、やはりレエスや花の波が十六菊を染め抜いた紫縮緬の幕の下に、休みない動揺を続けていた。そうしてまた調子の高い管弦楽のつむじ風が、相変わらずその人間の海の上へ、用捨なく鞭を加えていた。

勿論この露台からも、絶えず賑やかな話し声や笑い声が夜気を揺すっていた。まして暗い暗い針葉樹の空に美しい花火が揚がる時には、ほとんど人どよめきにも近い音が、一同の口から洩れたこともあった。その中に混じって立っていた明子も、そこにいた懇意の令嬢たちとは、さっきから気軽な雑談を交換していた。が、やがて気がついて見ると、あの仏蘭西の海軍将校は、明子に腕を借したまま、庭園の上の星月夜へ黙然と眼を注いでいた。彼女にはそれが何となく、郷愁でも感じているように見えた。そこで明子は彼の顔をそっと下から覗き込んで、「お国の事を思っていらっしゃるのでしょう。」と半ば甘えるように尋ねてみた。

すると海軍将校は相変わらず微笑を含んだ眼で静かに明子の方へ振り返った。そして「ノン」と答える代りに、子供のように首を振って見せた。

「でも何か考えていらっしゃるようでございますわ。」

「なんだか当てて御覧なさい。」

その時露台に集まっていた人々の間には、またひとしきり風のようなざわめく音が起こりだした。明子と海軍将校とは言い合わせたように話をやめて、庭園の針葉樹を圧している夜空の方へ眼をやった。そこにはちょうど赤と青との花火が蜘蛛手に闇を弾きながらまさに消えようとするところであった。明子にはなぜかその花火がほとんど悲しい気を起させるほどそれほど美しく思われた。

「私は花火のことを考えていたのです。我々の性のような花火のことを。」

しばらくして仏蘭西の海軍将校は優しく明子の顔を見下ろしながら教えるような調子でこう言った。

 これはきれいな情景描写だと思った。瞼の裏に情景が浮かぶ。

本書では「全体のデッサンを書くように」と表現していたんだけどまさにその通り。

この将校のセリフの意味は説明されておらず、読み手が想像するしかない。

それでもはかなに花火に生を重ねたりしていることからあまり二人の仲は進展しないのかなとか思ってしまうよね。

 

太宰の文章

気の利いたフレーズ

死のうと思っていた。今年の正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。

なんというか引っかかるフレーズだと思う。

着物一反で夏までは生きようと思った、これくらいのためだけに生きる人生って何?って思う。前後の文章は載っていなかったのでわからないが、この主人公、悲しいやつだなととても印象的。

この感じを別に書き換えろと言われると難しいよね。

 

満月の宵。光っては崩れ、うねっては崩れ、逆巻き、のた打つ波の中でお互いに離れまいとつないだ手を俺が故意と振り切ったとき女はたちまち波に呑まれて、たかく、名を呼んだ。俺の名ではなかった。

なまじ心中未遂が多かっただけでないと思わされる。鬼気迫る心中の場面。
もうこの女が読んだのは「俺の名ではなかった」というのがすごく想像を掻き立てられる。誰の名を呼んだのか。一緒に心中もでしている「俺」とはなんだったのか。

その背景をすごく考えてしまわずにはいられない。

 

文章とは

著者は脳裏に浮かぶままただ書き連ねていくだけではダメだとしてこの二人のようにテーマを明確にして文体、舞台にういてもよく考えるべきだとしている。

たしかにこう分析されると二人の文豪の文書はつたない言葉で申し訳ないのだけど【深み】があると思う。

 

二人に限らず、文豪の作品をまた改めて読んでみて自分の文章のアップグレードをはかりたいと思う。

 

 

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